昭和45年9月21日 朝の御理解★
御理解 第49節
「信心は相縁機縁」
今日私はあの、御神前で、それがどういう意味かは、あー、分かりませんけれども、★相対性原理ということを頂いた。(本当?)大変、いわゆる学問の中でも、一番難しい、最高の学問だと、いう程度のことしか私には分かりませんけれど。相対性原理と、に基づくところのもの、ですね。「信心は相縁機縁」私共に、係わり合いがあるというか、縁ができるというか、その、縁は、相縁によって、または、機縁によってできていくものです。
不思議な係わり合い、不思議な縁ですね、私とあなたはと言ったような場合があるでしょ?実に不思議な縁。えー、相縁。これは、この、性が合っているというかね、相性、あー、いわゆる、私にピッタリ合っておる縁と。まー、機縁というのは、あー、まー、不思議な縁と言うだけではなくて、ま、だいたいは、その、縁合ってはいない。まー、言うなら、私とのその縁が、あー、言うなら、良いことのために結ばれる縁。ね。自分の都合の良いことのために生まれる縁。ま、それを相縁と申しましょう。ね。
機縁というのはそれとは反対。ね。言うならば、悪縁とでも申しましょうか、逆縁と、なんかなそういうふうな、自分には都合の良くない縁。ね。(幸せを?)するということのため生まれてくる縁。そのことの縁ができるために、不幸せになるという縁。ま、そういうような今日は頂いていきたいと思うです。だから信心はとこう言うておられます、ね。
だから、信心はその相縁機縁全てをです、ね、おかげの縁として受けていくと、信心は、信心がなからな、ああいう、言うなら、人と付き合いをするようになったからこういう悪い結果になったとか、ね、ということになるんでしょうけども、例えばそういう場合でもです、ね、それを生かしていくということ。そういう縁ができたことを、それを、縁を有難いものにしていくと、信心はそれなんだ。信心は相縁機縁とおっしゃる。ね。
言うなら、私を憎んでおる人がある。えー、私の言うたりしたりすることに、いつも、言えば反対をする人があるといたしましょう。その、言わば、反対をされたり、障害に、(いわゆる?)入ってくる、邪魔に入ってくるといったような、そういうものですらも、それを良縁にしていこうという、信心は。そういうことのおかげで、ね。
言うならば、かたぎ役の人ですらも、その人のおかげで私はここが分かりえた、その人のおかげで私は今日がある、幸せをしておるといったおかげにまで、えーそのー、仕上げていこうというのが信心だ。ね。信心は、ただ相縁機縁とは(おっしゃってない?)。信心は相縁機縁なのだ。信心をさせて頂く者は、そういう良縁悪縁を全てをです、それを私は、ま、相対性原理ということがどういう意味のことか分からんけれどもです、私共の、この、立ち行きというか、そういうものをですね、全てのそういう縁と相対しておると。
実際、私共は、どういうようなことでも、その、どの一つでもなからなかったら、本当の立ち行きはないのだと。例えば、暑いとか、寒いとかがあります。私には、今日は暑い方がよい、今日は寒い方がよい、というようなことがあります。今日は寒かっては困る、今日は暑かっては困るということもあります。
けどもその、暑い寒いということ取ってもです、ね、今日の、例えば、「寒いおかげで一生懸命働かせてもろうた。」と。寒いと思いよったけれども、ね、汗がにじむほどにあった、と。着物は一枚かえって反対に脱がせて頂いたと。そこに言うならば、寒さが生きてきておるわけですよね。暑さ場合でも理屈は同じことが言えると思う。ね。海水浴なんか寒い時にはできりゃあしません。暑いおかげで、例えばああいう、いえば、愉快な遊びができるわけです。ね。いわゆる暑いおかげである。
「信心は相縁機縁」ね。昨夜の、んー、御理解の中にですね、こういう御理解を頂きました。昨夜の御祈念の後に。人間は、ね、誰が何と言うても、自分ほどかわいいものはないということ。人間はね、もう自分ほどかわいいものはない。いかにも、孫は目の中に入れたっちゃ、その、痛くないごとかわいいと言うてもですよね、本当言うたら、自分ほどかわいいものはない。親が、んな子供を憎いと思う者はありません。(やっぱり?)かわいい、その子のためにと思うくらい。
けども、いよいよぎりぎりの時にはです、ね、自分が一番かわいい。ね。例えば、えー、ま、円満な夫婦生活、親子本当に円満にいっておる人でもです、いわゆる魔が差すとでも申しましょかね、例えば、どちらでも同じでしょうけれども、なら、愛人ができたといたしましょうか、いわゆる三角関係です。
そういう時には、言わば、言うなら、最愛と思うとった子供とでも、平気で、平気じゃなかろうけれども、別れるじゃないですか。子供がかわいくないはずがないだろうけれども、それよりも自分自身がかわいいから、それができるのです、するのです、そういうこと。ぎりぎりのところ、ぎりぎりの線に持っていきますと人間はね、自分が一番かわいいということが分かる。満州引き揚げの時には、もうそういう例は多くあったということは、もう本当にかわいい子供を捨てて、自分だけが助かって、帰国したという人がたくさんあるです。という事実を私は聞きましたがね。
この子供を連れて行ったら自分が助からん、ために、子供を捨ててきたという例がいくらもあるという。結局、それはぎりぎりの線に出た時です、やっぱり自分が一番かわいいということの実証のようなものですね。後から後悔もします。ね。愛人ができたために、自分のかわいい、言うならば、まー、主人とは別(りゃ?)他人と言ったような考え方もあろうけれども、それこそ血肉を分けた自分の子供ですらも、捨てて愛人の元に走るというのは、ね、自分が、自分がやはり一番かわいいからなんです。ね。
ところがそこに、まー、道徳的なとか、ね、義理とか人情とかといったようなものが差し挟んでまいりますとですね、いわば義理人情のために自分を犠牲にするといったようなことにも、ないことはありません。ね。信心というのはね、そういう人間のぎりぎりの問題というか、所を、ひとつふんまえて、そこから自分の心が神に向かうというかね、おかげを頂いていく、いうならば、和賀心が神心に、そこの過程を真とか、真心とかということで、いろいろ教えられます。ね。
真とか、真心と。ね。そこからね、これはもう義理でもなからなければ人情でもない。いわゆる真である。真心である。そこに例えば、自分を犠牲にしていくというかね。いわゆる、その一番大なるものは、教祖様がおっしゃっておられる、「この方は人が助かることさえできれば」というような精神なのです。ね。人が助かることさえできればと。私どもの先輩、ね、先覚のお徳を受けられた先生方は、やはりそれに基づいておられるのです。ね。
そのために、自分をいつも空しゅうしていかれた。自分を無きものにしていかてた。そして、そこに人が助かっていくということだけが楽しみの生活に入っていく、そういう生活を、私は、本当の信心生活だと思いますね。信心生活とは、そういうことを教え、そういうことをです、自然にできてくるように道付けてくれるのが、宗教であり、信心であり、教えなのです。もうそこには、義理とか人情とかね、えー、道徳的といったような、いわば生易しいものではなくなってくるわけです。ね。
そこにはどういう結果が生まれるかというと、なら、義理人情では、自分を犠牲にして、まー、それは、お芝居なんかの筋に出てきますよね、よく。(さのちのやま?)でも、一つの美談的なものとして残るぐらいなことは、残るかもしらんけれどもです、自分が立ち行く、自分が助かるということにはなってこないのです。信心はね、自分を犠牲にすると、自分を空しゅうしていくと、いうことはね、いよいよ和賀心が神に向こうていくことであり、いわゆる神心の(はつろう?)が様々な形になって現れてくるのです。
それが、天地の信用を(負う?)ことになるのです。いわゆるご神徳なのです。ね。そのへんがね、信心をさせて頂かなければわからないところであり、信心の値打ちというのは、そこだと、こう思う。私のような者がです、人のことのために命を懸けて祈れれる私になっていくというようなですか、ね。(ものが)いつのまにか教えに基づいてそれができるようになってくる。
人間というものは、だいたいは、本来は自分自身が一番かわいいんだ。ね。自分自身が一番かわいいはずの自分をです、いわゆる空しゅうしていくというんですから。自分を無きものにしていくちいうんですから。それが人が助かることさえできればという精神なんです。ね。
「世のお役に立ちたい、立たせて下さい。」などというような精神もやはり、そういう稽古の、私は、一つの手段なのです。ね。そこで、今日の「信心は相縁奇縁」とか、ね、「相対性原理」というのは、これはみなさんが、方が、良く詳しく知っておられるかもしれん、でなかったら、も少し、このことを勉強して、研究してみる。私が頂いたことをそういうことですから、けれども。そこへですね、相対性原理に基づいておかげを頂いていくということ。私どもがね、その、いうならば寒いことも暑いことも神愛として、それをわからして頂く、それを体験の上から(たいにん)していく。
なるほど、ね、こういう縁は結ばんがよかった、この縁のおかげで自分が難儀をしたというようなことですらが、信心によってくると全てが生きてくる。ね。そのことのおかげでというように生きてくる。「信心は」と、そこに言っておられる。信心は、そういうことになっていかなければならん。
昨日、それから昨夜お参りされた方達が、もう、ほとんどそういうお届けをなさいましたですね。今日はおかげを頂いて総会に参加したわけです、みなさんが。本当に天地が自由になると仰せられるが、もう何から、かにまで本当に鉄塔鉄尾、万事万端、御都合、お繰り合わせを頂いた。例えばあのような、そのおしめりの中に、おしめりが一っつも障っていない。いや、そのおしめりのおかげでです、かえって、おしめりでなからなければ頂けん雰囲気とか味わいまでが出てきた。
おしめり、「あー、降ってきたけん、ああしよう、降ってきたけん困る」といったことが一つもなかった。例えば、昨日あの、行きがけから、まあ、パラパラしておりました。ね。あちらへ着いて、例えば、お食事をさして頂く時分は、それこそしずくが出る、あの、落ちるほどしに、のおしめりでしたけれどね、ちょうどお食事の時ですから、一つも障らなかった。それこそ、もう、あの山の頂上のことですから、雲が降りてくるじゃなくて、雲の中で、その、会食させて頂いたような感じ。
もう普通(でども?)味わえたり、見られたりする情景ではない、ま、なんとも言えん、その、そういう、もうちょっとこの世のとも、雲がそこにずーっと、こう流れてきておる。それこそ、雲の中で雲の上に乗っておるような感じ。ね。済んだ、お食事を済ます頃、半ばから、ずーっと晴れてきた。
あー、あそこ草原ですから、あれが普通の所でしたら、あれだけのおしめりがあるなら、下はベタベタで何もできんでしょうけれども、ね、色んな、あー、ゲームなんかもさしてもらえるし、まあ、色々に、万事万端の上に、本当に、そのおしめりのなら、おしめりの中を縫うように、ね、例えば、神様にも色んなご都合があろうと、今日はどうでも降らなければならないご都合があろうけれどもです、信心をさして頂く者の上に、いわば、神様が自由に、ね、その合間を縫うようにして、その、ことを運ばしてくださり、ことを成就さしておってくださる。
みなさんもそれを実感されたことがあろうと、こう思います。ね。神様の働きを受けておる。いわゆる、おしめりも、むしろそこに生かしたわけです。そういう雰囲気の中に、(?)秋の総会がもたれた。そして総会を境にです、お互いが、一月後に控えておる大祭のことを祈り、願わせて頂いて、ね。
大祭の、いわば、盛り上がりというかね、そういう雰囲気をいよいよ頂かせていただくおかげを頂かしていただくことのためにです、ね、一つ、こういう修行を思い立たせて頂きます、ね、大祭まではこういうふうな、といったようなお取次ぎを、みなさん願われた。こういうことは、どういうことになるかというとね、自分が一番かわいい、自分のためにするというのではなくてです、もうそこにはね、自分というものがないわけです。
大祭を迎えさして頂くことのために、例えば様々な修行をするということは、犠牲に、自分というものを犠牲にしておるわけです。ね。そういう気安い、見やすい、しかもそうしなければおられないような雰囲気とか教えを受けてです、いつのまにか、自分を空しゅうすることの尊さとか、ありがたさがわかってくる。ね。
それが、例えば、より尊いものになって、一生が修行だと、例えば、「四十九」もう、いつもが、人間というものは苦労だと、苦労があるのだと。それを私どもが、ね、いつもそれを修行として受けてゆく。しかもその修行がです、ま、高度な表現で言うと、人が助かることさえできれば、いつも自分を犠牲にし、自分というものを空しゅうして、そのことのために、(なら、?)世のお役に立つことのために、自分が空しゅうされていきよる、修行していきよるということになったら、いよいよそれは、尊い、有難いことにならんはずがない。ね。
普通、人情、義理、道徳的な、というようなことで自分を犠牲にしていくことは、本当に自分が、考えてみると、馬鹿を見るだけ。なるほど、自分が一番かわいいということが、そういう思いが、いよいよつのるばかり。ところが、こと信心になる時に、信心は、いわゆる相縁機縁。その相縁を、機縁を生かしていくところの働き。ね。それを、まあ、難しい言葉で言うと、ね、相対性原理に基づいての助かり方を教祖は教えておられるということになる。ね。
それに基づいて不幸になっていくというのではなくて、それに基づいて教えを下さってある。ね。そしてそこに助かっていけれる、いうなら、確かに自分を空しゅうした、確かに自分を無きものにした、犠牲にした、のにもかかわらず、自分自身が助かっておることに気が付くのです。信心というのはそれなんです。ご利益とはそれなんです。私はそう思うです。ね。
自分を犠牲に、いわば自分を空しゅう、人のために修行した。人のために、いうならば、人が助かることさえできればという、そういう精神でです、修行がなされていくところにはです、ね、修行しただけ自分が損したようにあるけれども、その修行が全部見に付いておる。その修行が全部、神様の認められるところのものになっておる。それが神様のご信用を受けることになり、身は神徳の中に生かされてある喜びを謳歌することができる。ね。
自分のことのためならです、火の行水の行もいとわない、ね。というのはですね、ですから、やはり、自分の身がかわいいからすることになるんだということになりますね。だからそれもやはり、願うということからになってみればです、ね、一つの(願いってこと?)成就することのためにですね、えー、そういう例えば、修行にもなってまいりますけれども、まあ、その焦点というか、その目標も、目指しというものがです、ね、世のお役に立つことのために、これではお役に立てない。
ために、願う。まず、自分のことのようであるけれども、その目的がいわば、世のお役に立つことのためにですから、これは生きてくる。ね。それを、なら、そういうことではない、ただ自分の身楽、自分の身勝手なことのためだけにです、それが修行がなされるとすると、その修行は非常に、程度の低いことになって、程度の低いものになるわけなんです。ね。
いわゆる自分の身がかわいいから、修行しておるということだけになってくるのです。そこんところを、ちょっと思いを変えるところからです、ね、その変える、一つの生き方を、教えによって私どもがわからしてもらえ、それを体得さしてもらうというところからです、なるほど、自分を空しゅうしたり、犠牲にしたりするということが、ね、しかも、それが信心でなされる時に、このように尊いことになるのだと。そこにはもう、おかげを受けたというのではなくて、自分自身が助かる場というものがでけてき、それがだんだん広がっていく、ことになるわけです。ね。
だから、そこまでいかんとですね、信心は尊いものということにならんのですよ。自分が、自分の一家が助かりさえすりゃ、すればいいち言うんなら、やっぱり自分の身が一番かわいいから、一生懸命信心しとるということになるのですからね。そすと、我情我欲のための信心ということになりますから、信心を、信心者が軽蔑されたり、軽視されたりするのは、ただ、そういう自分の身楽のことのために信心しよるというのだから、やはり、ね、信心を、いうならば軽く見られたり、いわば偽作に見られるわけなんです。ね。
だから、教祖の神様は、いつの場合でも、その焦点をですね、人が助かることの、ことさえできればというところに焦点が置かれてあっての修行であり、自分を空しゅうするということであられた。そこを私どもがです、教えに基づいて、(一変になれ言って、なれることじゃ?)ないけれどです、なれることじゃないけれども、自分以外のことに、少しずつ、自分の心がそちらの方へ向いてくる。そういう意味でです、大祭なら、大祭を前にして、ね、お互いが自分を空しゅうする稽古をするといったようなことは、大変有難いことだと思いますね。いわゆる義理や人情やらで大祭まで修行するちいうのではない。ね。
本当に神様に喜んで頂くことのために、その大祭が有難いことにならせて頂けれるようなおかげを受けるということなのですからね。そこにです、少しずつではあるけれども、自分の生き方がです、ね、自分というものをです、空しゅうしたり、犠牲にしたり、する、していく働き。そういう生き方からです、信心は相縁機縁、全てのことがです、ね、有難い縁として、その縁を縁として、いわゆる結実というかね、結んでいくというか。しかもそれに、実を上げていくおかげが受けられると思うです。
せっかく、私どもが確かに一生が修行とおっしゃられるぐらいですから、ね、なるほど、難儀は伴う、苦労はありますけれども、それを私どもが修行と受ける、しかもその修行がです、ね、少しでも、世のお役に立つことのための修行であるというように切り替えられたら、大変尊いことになってくる、尊い生涯ということが、いわゆるなんと言うんですか、いわゆる、生きがいのある、いわば苦労と、生きがいのある修行ということになってくるのじゃないでしょうか。ね。
しかもそういう生き方はです、ね、神様が見逃したもうはずもない。そこに神様のご信用がますますついてる。いわゆる御神徳を受け、御神徳の中に生かされている喜びを味合わして頂くことができる。そういう生き方をね、私は本当の意味での信心生活だというふうに思います。信心。信心はとこうおっしゃる、ね。
いわゆる相縁機縁。という、例えば四十九節を頂きましてから、私が頂いたことは、まあ、相対性原理といったような、難しい言葉で頂きましたが、まあそれと、少し関連ができましたか、結ばれ、結ぶことができましたかは、よくわかりませんけれども、みなさんの信心で、そのへんのところを、いわゆる、全てを、いわばその、原理に基づいて生かしていくという生き方を、教祖は教えられたんだ、私どもはそこを稽古しておるんだという自覚の基に信心が進められていかなきゃならんとおもうですね。どうぞ。